清水焼団地探訪
文=藤田あかり(フリーライター)
巨匠 故・楠部弥弌先生を振り返って
 --四女楠部敦子さんに聞く

(楠部弥弌略歴)

明治30年、楠部貿易陶器工場を経営する父千之助の四男として京都市に生まれる。

大正4年京都市立陶磁器試験場付属伝習所卒業後、創作陶芸の道に進む。

精力的に作家活動を行い、パリ万国博覧会、帝展、日展など受賞多数。

日展審査員、日本芸術院会員及び文化勲章受章者として、生涯創作の情熱を失うことなく国内外で広く活躍した。

1984年87歳で死去。従三位に除せられ、銀杯を下賜される。

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--敦子さんは楠部弥弌先生44歳の時のお子様で、四女としてお生まれになりました。 敦子さんがお小さい頃の、楠部弥弌先生はどんなお父様でしたか?

 「小学校くらいまで一緒に遊んでいました。学校から帰ってきてご近所の子どもさんやお友達が家に来ると気晴らしになるのか、一緒にこの家で野球したり、仲間に入ったりしてましたね。父に叱られたってことは一度もなくて、世間的な“お父さん”っていうイメージもなかったですね。友達か一人の芸術家か。感覚的にそういう目で見ていました。」

--芸術家としての顔の時は?

 「父が制作している時は、あんまり近寄れませんでしたね。兄弟げんかなんかしますでしょ。そうしたら、母から“お父さんお仕事してはるんやから、表いってけんかしなさい!”って言われたりする(笑)。普通は、表でけんかしてたら“中に入りなさい!”て怒られますのに。そういう雰囲気で大きくなってますので、“この時間帯はアカン”とか、自然と身についてました。」

--創作活動を自然に家族が支えていたのですね。

 「仕事としては家内工業みたいなものですからね。特に、母は対社会的に作家活動を支えてましたから、母のサポートがなかったら父はあれだけの仕事ができひんかったんではないでしょうか。私達姉妹はそんな母を何とか助けてあげようという気持ちはありましたね。私とすぐ上の姉は6歳離れているんですが、その姉が私の中学校の保護者会とかに出席してましたし、 自然に“こうしてあげるほうがいいな”という思いが姉妹のなかにありました。」

--家族に支えられてこそ、制作に集中できた・・

 「制作することだけが生きがいであり、自分の使命であると父は考えていたと思います。制作しようと思う気持ちが常にあるんですね。今までぼおっと空を見てたかと思うと、すっと立ち上がって工房へ入ったりする。そんな姿を見て“何かいいイメージ浮かんだのかな”と感じてましたね。」

--制作すること以外は頭にないというか・・・

 「何かイメージがわいて頭の中でデッサンができて、今度はどういうものを制作したいというのができてきたら、周りを構わなくなるんですね。朝早く出かけて車を運転してると、信号が赤でも止まらんと渡ってくる人がいる。“この人危ないな!”と思ったら、散歩中の父だったり。何か集中しながら歩いてると周りが見えなくなる。あれは芸術家の特性です。(笑)」

--五人姉妹のうち、どなたかがお父様の後を継ぐということは考えなかったのですか?

 「自分の後は、お弟子さんがたが自分の精神を継いでくれるという気持ちは持ってましたんで、家族の中で誰かに継いで欲しいというのは、はなから考えてなかったと思います。“焼き物の家やから焼き物しなさい”というようなことも、全然ありませんでした。それこそ私達の中で“焼き物をしたい”という声があれば喜んだとは思いますけど、誰も言いませんでしたね。私は茶道に出会ってから茶道家の道を進むようになりましたし、皆それぞれやりたいことを見つけてましたから。それに、つねづね言ってました。“技は継げても感性とか心までは継ぎにくいもんや。だから芸術家というのは一代でいいもんや”と。」

--お母様が亡くなられてから、敦子さんがお母様の代わりに、先生を支えることになりましたが。

 「母が亡くなって、茶道をやりながら父の食事や健康、作品の管理などの世話をしていると、毎日24時間では到底足りませんでしたね。作品をご希望している方がたくさんおられましたから、できあがると“やっとこれであの方のところにひとつ納められるわ”という風に、作品をじっくり見る気持ちのゆとりもなかった位でした。ただ、父は母の死後、精神的な支えを失っても制作意欲は全く衰えなかった。寂しさを紛らわせるために、制作へ心が向いたのかもしれませんが、“自分の人生で、何一つとして完成したという達成感が自分にはまだない”と晩年よく言うてました。」

--87歳で死去されるまで、創作活動は変わらず精力的でした。

 「作品に対して“これでよい”と、自分で決して思ってなかったんでしょうね。焼き物は、外から見たらものすごく神経すり減らしてしんどい仕事やと思いますし、私も小さい頃から、制作するときの緊張感とか苦労みたいなものを感じてました。でも、父が亡くなってから、気づいたんです。父自身はその苦しみを楽しんでいたんだろうと。そうでなかったらあんなに長い間制作できしません。苦しみの中で自分自身が楽しみ、達成感を持つ。そうでなかったらとてもできなかったんじゃないでしょうか。」

--亡くなられてから、そう思われるようになったのですね。

 「展覧会などを見て、じっくり父の作品と向き合ってみると、作品には厳しさや凛とした姿勢、温かさなどは感じても、苦しみはひとつも感じないわけです。作品には厳しい人でしたし、自分を追いつめて制作する姿も見てきましたけど、亡くなって、父と離れて作品をもう一度見てみると、“楽しんでたんやな”って思いますね。」

--敦子さんの中にも先生から譲り受けた精神が流れている・・

 「私も茶道を楽しんでやってます。茶道具の組み合わせや発想のなかで、時々“父の娘やからこういうこと考えんのかな”と感じるときがありますね。でも、一番もらったなと思うのは、空を見て今日は綺麗やなと思う気持ち。風が吹いたらもう春やなとか、お日様の光で季節を感じたりする心ですね。父は、自然が一番の人でしたから。」