清水焼団地探訪
文=藤田あかり(フリーライター)
技の継承と開拓精神との融合
丈夫窯 加藤丈夫・丈尋さん親子
略歴

昭和57年 丈夫さん、清水焼団地にて、丈夫窯を開窯
昭和63年 丈尋さん、丈夫窯にて作陶開始

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 宝石をちりばめたように鮮やかで、透き通るような釉薬が印象的な花器たち。丈夫窯の加藤丈夫・丈尋親子が手掛ける陶器には、そんな美しい透明感がある。

 昭和57年、丈夫窯として独立開窯を決意したのは、丈夫さんが48歳、丈尋さんが高校受験真っ只中の頃。元々は父親と兄の下で陶器制作を続けていた丈夫さんだったが、年齢的に独立を考えるには、相当な決意が必要だったに違いない。

 「後継ぐものがいるんやったら独立するから、と親父に言われましてね。そういう話を聞いても、まだ中学三年生でしたから、あまりピンと来なかったのが正直なところでした。ただ、とりあえず3年間高校行った後は、その道に入るんやなという感じでした。」

 丈尋さんにとって、土は子どもの頃からの遊び道具。意識はしなくても、自然と陶器の進路へ向かう素地はあったのだろう。高校卒業後、陶工専門校を経て、父の所で修行を始める。当時は、年間に何万個という花器の注文があり、工房はフル稼働。朝早くから夜遅くまで、自分が機械の一部になったように、流れ作業で仕事をこなす日々だった。

 「あんまり頭使って仕事するというのはなかったかな。時間内に終わらせるほうが先で、後は遊ぶことを考えてたね。それが、結婚して外に出えへんようになって、仕事とずっと向き合う時間ができてたときに初めて、これからどういう陶器を作っていけばいいんかを、考えるようになったんです。」

 丈尋さんが、志した新たな展開。それは、窯元の仕事とともに、個人名として、つまり作家としても活動を始めることだった。展覧会に出展し、人の目に触れることで、少しずつ自分の作品を確立していくようになる。毎年東京ドームで開かれるテーブルウェアフェスティバルなど、多彩なイベントにも参加し、トータルコーディネートとしての陶器作りも模索中だ。

 「人に評価されることに臆せず挑戦していきたい。展覧会に出して人の目にさらされることで、作品に対する意識も生まれてきます。それに、他の出品作を見ることも、勉強になります。」(丈尋さん)

 絵付けの上に、幾重にも釉薬を重ね掛けするという珍しい手法を取る窯元としての作品と、端正な色調で和洋のどのシーンでも馴染む作家としての作品。窯元と作家、二足のわらじを履くことで、混乱することはないのだろうか。

 「どちらを取る、捨てるとかではなくて、自分のなかでは同時に向上していきたいなという感覚でいます。花器は、華道の関係で形が大体決まっているので、親父に習いながら釉薬を研究し、作品は形も色も自由なので、時代に即した、物づくりをする。どちらの経験も、価値があると思ってます。」

 父親の丈夫さんはこう話す。 「私もええことやと思てます。作家さんの中に入り込んで、完全に染まってしまうんやなしに、窯元の仕事も手掛けることで、よい物を作っていきたいという感覚も必要ですから。」 共通することは、人に大切にされる作品を作ること。 「7,8年前に買ってくれた方が、商品を割ってしまったいうことで、わざわざ同じものを探しにここまで訪ねてくれたことがあるんです。連絡先もわからなかったみたいで、随分探し回ってくれたそうですが、そんなことを聞くと本当に嬉しい。大事に使ってくれてたんやと思うと、作りがいがあります。」(丈夫さん)

 「陶器作りは、人間半分、作品半分やと思うんです。作品だけじゃなく、作り手の顔や個性が見えることで、もっと人によって大事にされるんではないかと。そのためには、物と一緒に、自分自身も磨かなあきませんね。」(丈尋さん)

 「陶器には、客観的に決める価値というのがありません。コンピュータで点数がでるわけでもなく、人の価値観によって必要かどうか決められるものです。部屋に置きたい、陶器を見て嫌な気分が吹き飛んだ、心の癒しになる・・そういった、その人にとってなくてはならないものを、作り出していきたい。」(丈夫さん)

 「陶器は割れるもんですが、割れないよう大事にしてもらえるような陶器作りをしていきたい。百円ショップで安価に陶器が手に入るようになってます。それはそれでええと思います。けど、割れたらまた買えばいいというのがあるから大事にしない。私の場合、そういう存在でいるのではなく、割りたくないと思われるような陶器を目指したい。それには、人が使ってくれるんやということを意識して作っていきたいと思います。」